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2019.05.30

知多半島案内 Vol.34『知多半島の温故知新その2 JR武豊線』


 

知多半島案内 Vol.33『知多半島の温故知新その2 JR武豊線』

みなさんこんにちは!知多半島の情報誌『EDIT知多半島』のライター田村です。今回も知多半島へお越しの際にぜひ知っていて欲しい情報をお伝えいたします。

 

温故知新とは、「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」という、過去の事実を知り新しい知識や見解をひらこうという意味があります。現存する物が減りつつあるとはいうものの、まだまだ興味深い歴史的なモノが残る知多半島。そんな知多半島の歴史を知ることは、新しい何かを思い出すきっかけになるかもしれません。ということで、シリーズ「知多半島の温故知新」で今回ご紹介したいのはJR武豊線です。歴史的なお話となりますので、文体もいつもと少し変え、趣を変えた記事となっています。貴重な資料とともに、少し歴史を振り返ってみましょう。それでは、はじまりはじまり。

 

 

まずは年表で歴史を振り返る

 

EDIT知多半島56号より

EDIT知多半島56号より


 

 

鉄道を引き寄せた海運

半田地方は室町時代の1536(天文5)年から9回にわたり、幕府の手によって港の建設が始まった。5年後の1641(寛永18)年に造船場が設立されるなど、海運基地の整備が着々と進められていき、それから約50年後の1690(元禄3)年頃から、御用の貨物を運ぶ千石船が活躍するようになっていった。このようにして文政年間から幕末にかけて、海運が最も隆盛を極めた時代であった。

尾州の廻船は、古くは伊勢湾側に位置する知多半島西部の大野の湊(常滑市)が中心だった。しかし1700年代に入ると、三河湾側の亀崎(半田市)を拠点とする醸造家の出資もあり、新たな廻船集団が生まれた。これらの廻船で酒や酢の醸造品や御城米が運ばれるようになり、廻船は半田地域のみでなく江戸と三河、名古屋、伊勢を往復することも多くなっていった。

1885(明治18)年頃の半田地域の港には、34隻程(半田村)の廻船があったそうだ。船には酒や酢、米などを積んで江戸へ向かい、また江戸からは大豆、しめ粕などの肥料や空樽などを積んで帰港していた。荷を積み降ろす際は廻船を沖に停泊させたまま、瀬取船に積み替えて着岸し、倉庫まで運び入れた。そのころの半田村には、この瀬取船が20隻ほどあったそうだ。

 

半田川口(年代不明)

半田川口(年代不明)


 

 

鉄道建設の始まり

鉄道がイギリスから導入されると、人足や馬車による今までの輸送体型から大きく変化した。明治時代に入り日本での初の鉄道として、1872(明治5)年10月14日(旧暦9月12日)新橋駅(のちの汐留貨物駅、現存せず)-横浜駅(現在の桜木町駅)間が開業され、翌年の9月15日から貨物列車の運行も開始された。

一方関西でも鉄道建設が進められていた。1874(明治7)年5月11日、大阪駅-神戸駅間の仮開業を経たのち、1877(明治10)年2月5日京都駅-神戸駅間の営業が開始された。鉄道が田畑を横切る際、左右の田畑の水路が分断されてしまう。そこでその水路を繋ぐため、鉄道用土管が使われた。新橋ー横浜間の開通時はイギリスから輸入したものを使ったが、京都ー大阪間では全国の製陶地から見本を集め、その中から最高品質の土管を採用することとなった。そこで選ばれたのが、常滑真焼土管であった。知多半島の粘土は鉄分が多いので、高級陶磁器にこそあまり向かないものの、大物つくりには最適な粘土質なのだ。武豊線建設の際にも、内径30cm、長さ61cmの土管が2千から3千本使われたと推定されるが、常滑からの運搬は、かなり大変だったようだ。

開業で鉄道の利便性はいっきに浸透した。政府は国防も兼ねて、東京-神戸間を繋ぐ鉄道の計画を持ち上げた。これによって幹線道路建設が急務となり、早期貫通は国を挙げて進められていった。

だが、計画は持ち上がったものの東海道経由と中山道経由の2案があがり、決定が及ぶに至らなかった。そこで流動の多い東京-横浜間を支線として、先行開業させることになった。

工事は着実に進んでいった。1883(明治16)年5月1日、中山道ルートの一部として関ヶ原駅-長浜駅間(現在のルートとは異なる)が、翌1884(明治17)年5月25日には大垣-関ヶ原駅間が開業している。

武豊線の着工は先の開業の翌年1885(明治18年)に、資材輸送を目的として開始されることになる。そして明治政府は翌年の1886(明治19)年7月19日に、建設コストが高くなることなどの理由から、当初の中山道鉄道案から東海道鉄道案にルートの変更を決定した。

 

 

荷役線として開通した武豊線

幹線敷設にあたり、東京-神戸間の中間地点である中部地区の、鉄道建設拠点地が検討された。四日市線が候補にあがっていたにも関わらず、昔から良好な港湾で、海運が盛んなことから荷役扱いが整っていたこと、また大きな河川もなく、平坦な干拓地が続く建設用地があること、更に沿線の人口が多く、海岸堤防の建設をする黒鍬者の路盤工事技術者がたくさん在住していたことなどから、鉄道建設における様々の必要な条件が、知多半島の半田線(当初の呼び名)建設に総て整っていたことで、1882(明治18)年3月23日幹線鉄道建設にあたり資材輸送を、四日市線から半田線に最終変更して、太政大臣へ上申書「半田線上申書」を提出。それから3ヶ月後の同年6月20日、太政大臣より「建設資材運搬用として半田線を仮に敷設すべし」と令達が下った。

中山道の一部として、長浜から東へ伸びた線路は大垣まで繋がった。この先の大垣-高崎間(中山道線)を建設(後に東海道線の建設に変更)するため、旧武豊港の桟橋から熱田までの間の敷設が開始された。

工事の皮切りは、武豊村道仙田の地先に長さ80間(約140m)、幅3間(約5、5m)の木製桟橋の新設だった。ここから武豊-熱田間と東海道線用の建設資材は揚陸され、8月1日いよいよ半田線建設工事が本格的に開始された。この工事の測量にあたったのが、当時35歳であったイギリス人のウイリアム・ピッツである。 

半田線建設資材の揚陸地として新設された武豊港駅には、海上輸送された車両もここで組み立てられるようにと、木製の転車台もあったという。神戸から来る弁才船などの輸送船は沖合に停泊し、瀬取船で桟橋まで運ぶか潮時を見ながら直接桟橋に横付けしていた。主な資材はイギリスから輸入した大量のレール、機関車、貨車、客車などで、そのほかに砂利や枕木などの建設用だった。これらの資材は平田船などに積み替え、更に陸地の中央部まで流れる細い河川を渡り、建設の中間拠点へと運んでいった。全線にわたり一斉に作業を行うことで、武豊港駅(開業時・武豊駅)-熱田間は7ヶ月という期間で完成した。

ケヤキで作られた木製の仮橋は26箇所に架けられ、その後順次、錬鉄製の橋げたを使い、正規のものに取り替えていった。こうして翌年の1883(明治19)年3月1日県下初の鉄道・武豊駅-熱田駅間が開通した。

 

武豊線の建設資材を荷揚げした武豊桟橋

武豊線の建設資材を荷揚げした武豊桟橋


 
イギリス人技師ウイリアム・ピッツが測量を担当

イギリス人技師ウイリアム・ピッツが測量を担当


 
武豊線開業運転が行われた車両「150型蒸気機関車改造」 1871(明治4)年 イギリスバルカン社製(IBタンク機関車)

武豊線開業運転が行われた車両「150型蒸気機関車改造」
1871(明治4)年 イギリスバルカン社製(IBタンク機関車)


 

 

開通時の武豊線

武豊線は旧武豊港の桟橋から熱田間に敷かれた愛知県下初の鉄道である。開通にあたっては、どれほど多くの人々が、一目その様子を見ようと、駅や沿線を訪れたに違いない。

列車が武豊駅を出発すると、まず半田駅に停まり、続いて亀崎・緒川・大高と停車し、熱田駅に到着するコースだった。一日2往復するこの貨物と客車の混合列車の表定速度(停車時間を含む速度)は18、9㎞/hとなっていたので、片道を1時間45分かけてこの区間を往き来していた。

愛知県渥美郡出身の高橋善一氏は、初代の武豊駅長である。明治15年初代長浜駅長だった高橋は、武豊線が開業すると同時に今度は初代武豊駅長となり、総括駅長として武豊線の全ての業務を行ったという。彼はのちに名古屋・大垣・大阪・新橋・初代東京駅長を歴任したそうだが、この時は武豊と熱田以外の各駅に配属されたと思われる2名程度の駅員らとともに、重要な任務を遂行していた。

開業から3ヶ月後の1886(明治19)年6月1日、武豊-木曽川間の開通と同時に、列車は一日3往復するようになった(途中1日2往復の期間もあった)。武豊線は旅客輸送ばかりでなく、荷物の取り扱いと資材輸送もおこなった。資材輸送の方は1887(明治20)年4月25日の武豊-長浜間の全通まで行われた。明治20年の初めからは、更に東海道線建設へと資材輸送は引き続き、移行されて行われた。同年の9月10日に武豊線の緒川駅(12年後に再開業)が廃止された。そして代わりに大府駅が開設されている。

翌年の9月1日、東海道線浜松駅と大府間が開業されると、大府駅-武豊駅(のちに移転)間は東海道線の支線となった。開業当時には武豊駅-熱田駅間を往復していた武豊線は、のちに大府駅-武豊駅間を往き来するようになり、この区間の線が武豊線と呼ばれるように変化していった。

数回にわたる路線延伸を経て1889(明治22)年、国を挙げて進められた東海道線建設は17年の時を経て、首都圏と京阪神を結ぶ新橋-神戸駅間の全線が開業した。

 

大府停車場之景

大府停車場之景


 
高橋善一武豊駅長

高橋善一武豊駅長


 

 

明治時代の建造物の名残り

半田駅に設置されている跨線橋と油倉庫は、1910(明治43)年11月に完成した全国で最も古いものである。新橋工場で製作されたことがわかる「明四十三鐡道新橋」と鋳こまれた跨線橋の支柱と、夜間信号機の灯に使う灯油が保管されている油倉庫が、今もこの駅に残されている。

 

明治43年11月に完成した半田駅の跨線橋は、JRで最も古いもの。右側は油倉庫

明治43年11月に完成した半田駅の跨線橋は、JRで最も古いもの。右側は油倉庫


 

産業と専用線

船と鉄道の荷扱いを容易にするため、連絡設備として鉄道の専用線が各駅で敷設された。明治34年、ライジングサン石油(現・シェル石油)が武豊港駅に設けられ、中部日本全域に鉄道で石油を運んだ。また大正10年10月には、帝国火薬工業(現・日本油脂)が新設された。こちらは大正12年11月に専用鉄道を敷き、各地に火薬類を輸送した。そのほか昭和8年12月7日に簡易駅として開業した東成岩駅は、一旦営業を中止して南へ移転する。その後再び開業し、昭和20年5月から駅員を配置した。この東成岩駅では川崎製鉄(現・JFEスチール知多製造所)の新設に伴い、貨物の取り扱いを始めた。

大正3年、カブトビールは工場から半田駅まで私設の軌道を敷いた。また駅には特設倉庫を造った。そして大正15年になると海運と鉄道輸送の利便性を図り、半田駅-半田港間の半田臨海線を敷くと、昭和8年に杉治商会が新しく飼料工場を設けた。

乙川駅でホームの延長と貨物側の線を敷くと、昭和20年5月から中島飛行機専用戦車扱貨物の取り扱いを開始した。亀崎駅からは美濃窯業へと延長され、海運で輸送された高浜市からの瓦や土管などは、直接緒川駅構内に輸送されていた。

鉄道が、いかに地元の産業を支えていたかということが、これらの事からでも伝わってくる。

 

 

時代に動かされる駅

昭和7年7月名古屋鉄道河和線が河和口まで開通したため、武豊線は利用客が減少した。そこで旅客の確保をするため新型車両の気動車列車(ガソリン動車)の投入、加えて東成岩・乙川・藤江・尾張生路・尾張森岡の5駅を順次新設するほか、増便するなどの改善を図った。

時代はやがて第2次世界大戦に突入していった。戦局は日増しに激しくなり、東京が初めてB29によって空襲を受けた昭和19年11月、ガソリン等の燃料不足から武豊線を走る汽車は、蒸気機関車へと切り替えられた。これによって運転駅間の距離を長くする必要が生じたため、新設された藤江・尾張生路・尾張森岡の3駅は廃止され、代わりに東浦駅が設けられた。駅とは時代を反映し、余儀なくされるものなのだ。

昭和30年頃になると世の中は、もはや戦後ではないといわれるように復興していた。終戦から12年後にあたる昭和32年4月、旅客の利便性を図るため、汽車の運転が再開された。それに伴い、以前廃止されていた石浜・尾張森岡の両駅が新たに設けられた。

平成13年4月1日、武豊線のCTC化(列車集中制御装置)で、武豊と東浦駅長の廃止が決まった。そして全線が半田駅長の管轄となった。

 

燃料費削減のためガソリンカーをディーゼルカーにきりかえる(鉄道時報より)

燃料費削減のためガソリンカーをディーゼルカーにきりかえる(鉄道時報より)


 

 

保存された転車台

転車台はターンテーブルの様になっていて、車両の転向に用いられた。貨物用転車台の主線路に載った貨車は、直角に配置された側線へと転線する。1線ではなく2線式の転車台が、現在旧国鉄武豊港駅に保存されているが、これは旧ライジングサン石油(のちのシェル石油)が貨車を油槽所へ運ぶために、1927(昭和2)年に設置されたものである。全国的にも残存例の少ない貴重な遺構は、何と武豊町に住む小学生によって、1999(平成11)年に発見された。石油輸送車に合わせて作られ転車台、鉄道の歴史と技術を知るうえで、大切な産業遺産である。

 

見つけられた転車台。現在は整備され、ポケットパークとして憩いの場となっている

見つけられた転車台。現在は整備され、ポケットパークとして憩いの場となっている


 

 

全線電化された武豊線

武豊線は、明治32年に開港の指定を受け、名実ともに国際貿易港であった※武豊港と連携し、最盛期の明治30年代から昭和40年代までの、約75年間という長きにわたり、産業の発展と都市の繁栄に大きく寄与した。

その武豊線は愛知県内のJR旅客線の中で、唯一の非電化路線であった。2015(平成27)年の春に、ようやく全線電化が実現した。未来に向かって発進する武豊線の動向は、やがて足跡となって長い歴史のうえに加筆されていくことだろう。その頃の知多半島は、いったいどんな風になっているのだろうか。

 

武豊駅と電化前の列車

武豊駅と電化前の列車


 

 

さぁ、現場で歴史を体験してみよう!

いかがでしたでしょうか?文体も含め、文字数も多かったので読み切れなかった方もいらっしゃると思います。最後までお付き合いいただけた方、本当にありがとうございます。

今回登場したJR武豊線は、今でも北は大府駅から南は武豊町まで走っています。確かに名鉄線の方が全長が長く、南へ遊びに行く際は便利です。ですが、歴史的な魅力のあるJR武豊線に乗って出かけてみるのもまた、知多半島の観光の楽しみとなることでしょう。もし、両方とも利用されたい方は、JR武豊線なら「半田駅」、名鉄線なら「知多半田駅」を利用すると一番乗り換えしやすい距離となっています。さぁ、鉄道で知多半島を冒険してみませんか?

 

 
※武豊港は昭和32年、衣ヶ浦湾内の7港とともに統合され、国の重要湾に指定された。現在は衣浦港と改名されている。
参考文献/武豊線物語 記録・写真集 (㈱)交通新聞社発行
    /武豊線物語 写真集 C11265蒸気機関車保存会 半田市・半田市教育委発行
資料提供/知多半島収集研究室 竹内 進氏
    /EDIT知多半島Vol.56

 
 

次回の記事もお楽しみに!

 

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